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日本の片隅でひっそりと暮らすおじさんが書くブログ

永井一郎インタビュー 前編

“形あるもの、必ず滅す”父から影響を受けた幼少時代

永井「僕は健康とは縁遠い人間ですよ(笑)。とくに小さい頃は、やんちゃなくせに病気ばかりしている子どもでした。あまりにも病弱だったので、“この子は、すぐに死ぬぞ”って言われていたそうです。でも、気付けば76歳になってましたけれどね(笑)」

― 永井さんは、昭和6年、4人兄弟の長男として大阪府池田市に誕生する。病弱でありながらも、戦時中は、軍属として南方にいた父に代わり、配給の受け取りや、疎開の手続きを行うなど、一家の大黒柱として家族を支えてきた。しかし、戦時中と言えども永井少年に暗さはなく、父親がコレクションしていたジャズのレコードを防空壕に持ち込み、こっそり隠れて聴く、というやんちゃな一面も持っていた。

永井「父からは、たくさん影響を受けましたね。父は、本や雑誌を本当にたくさん買ってくれました。だからと言って、『これを読め』と強制するわけでもない。世界文学全集から落語全集、それに、子供が読んだら具合の悪いような本まで、自由に読ませてくれましたよ(笑)。何も言わずに見守ってくれていたんでしょうね」

― 永井さんには、今でも忘れられないこんなエピソードがある。父親の大切にしていたレコードを割ったときのこと。“怒られるだろう”と覚悟していた永井さんに対して、父はひとこと、こう言った。

『形あるもの、必ず滅す』

まるで、波平さんのセリフのようではないか。

年間400本の映画代金は、友人のおごり

― 病弱だった永井さんを、多少なりとも丈夫にしてくれたのは、皮肉にも戦後の食糧難だった。

永井「食うものがなくなったということが、一番体に良かったですね。中学校では、水泳部に所属していたんですが、一日に最低5000メートルは泳ぐんです。そのエネルギー源は、おふくろが炒ってくれる一合の大豆。これをポケットに入れておいて、少しずつ食べるんです。口の中で水になるくらい、よーく噛むんですよ。たったこれだけで、5000メートル。きっと、食べ物を口にすると、栄養のすべてを吸収できるからだになったんじゃないかな」

― 戦後、戦時中に止められていた敵性映画が一気に放出される。

永井「たちまち夢中になりましたね。中学4年生の頃、旧制高校の受験を控えていたのに、年間400本も観たんです。今日は、あれを観た、これを観た、なんて、よく親父に話しましたよ」

― しかし、父親が引き揚げ者だった永井家は、戦後、貧乏だった。年間400本ものチケット代は、どう工面したのだろう。

永井「金持ちの友人が、ほとんど払ってくれました。今でも彼には感謝しています」

― 永井さんが好きだったのは、1930年代のフランス映画。『巴里祭』『舞踏会の手帖』『望郷』など、今でも心に残る作品が多いと言う。この影響もあり、のちに永井さんは、京都大学文学部の仏学科に入学し、劇団に参加することになる。

好きなときに来て、好きなときに帰れ

― 永井さんが、はじめて“芝居”と出会ったのは旧制高校の頃。

永井「“こんな世界があるんだ、面白いな”と思いましたね。でも、そのときは、自分が芝居をするなんて思ってもいなかった。大学に入って、暇で暇で仕方がなかったから、劇団に入ったんです。友達が誘ってくれたから」

― 当時の劇団員には、大島渚や吉沢京夫など、のちに日本の映画界、演劇界を背負って立つ人物がいた。永井さんは、大学を卒業する一年ほど前から、「プロの役者になろう」と思い始める。反対されるころを覚悟して父親に打ち明けるが、返ってきた答えは、あっけないものだった。

永井「好きにやれ。うちには財産がないかわりに、絶対の自由を残してやる。くたびれたら帰っておいで」

― 永井さんは、自由を享受する責任を感じながらも、卒業後、役者を目指して上京する。

永井「役者の勉強をしながら、広告代理店の電通で、メッセンジャーボーイとしてアルバイトを始めたんです。大卒でアルバイトはマズイから、と言われ、学歴を隠してもぐりこみました。でもある日、学歴がバレましてね。社員になれと言われたんです。『役者になりたので』と断ると、『好きなときに来て、好きなときに帰ればいいから』と言って、僕のワガママそっくり聞いて、応援してくれました。だから僕は、電通さんには足を向けて寝られないんですよ(笑)」

(株式会社ロフティ『えがおで元気』30巻 人生行路9 より)